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「中動態の世界」を読んで

更新日:2019年11月12日



率直な感想としては、この本は哲学の本ですが、ヒーリングの概念に通じる内容も論理的に説明してくれていて、頭を整理するのにとても役に立ちました。

こちらでも述べられていますが、「どんな領域にも入り込み、その領域を活性化させるのが哲学」といっている意味がよく分かります。本の内容を確り理解したとはとても言えなく、それぞれの考察がとても深いので、しばらく時間をおいてまた読んでいきたい本ですね。

本の序文、書評、目次はこちら

まとめとして本の全体像を掴むのにわかりやすいのはこちら

著者が「謝る」を例に中動態を説明しているのがこちら

そもそも、なぜ中動態に興味を持ったのか?

私が「中動態」という単語をみた時にピンと来たのは、能動態と受動態のどちらでもない状態を表せる「態」なのではないかと思ったからです。ソースポイントやバイオダイナミクスで通訳や翻訳をし、英文を読んで日本語でどう表すかを考えていると、文法構造上の違いもあるものの、現象として起こっていることや、施術者として行っていることを表す適切な表現方法の難しさを感じる時が多いです。また、話をしている時に相手にこちらが伝えようとしていることが全く伝わっていない感覚がする時もあります。それは体験が伴っていなかったり、言葉の理解が乏しかったり、信念が違うことが理由の時もあります。しかし、もし言語で失われつつある「態」があり、その「態」の理解が乏しいから言語的に伝えたり理解するのが困難なのであれば、中動態を理解することによってそれを改善できるのではないかと思ったのです。

また、中動態はサンスクリット、古代ギリシア語などに残っているというのも興味深かったです。なぜなら、ヒーリングやスピリチュアリティなどで出てくる、なんだか捉えどころがなくて良く分からない概念を理解する為に色々と調べていくと行き着く先がこれら古典的なものになるからです。中動態が失われていったプロセスと、ヒーリングやスピリチュアリティの部分で現在失われつつあるものが、関係しているのではないかと推測しました。TEDトークにもあるように、現代社会からみたら皆が統合失調症だったと言われている時代とも共通しているのも面白いですね。

中動態の簡単な解釈

中動態というのは、能動態と受動態の間というよりは、元々は能動態と中動態があり、中動態から派生した受動態が主流になって現在では能動態と受動態として表現されることが多くなっているそうです。私が中動態と聞いた時に思った、能動態と受動態の中間の態ではないということですね。もう少し能動態と中動態を対比しておくと、

「能動 = 主体から発して主体の外で完遂する過程」として、能動態しかない動詞として挙げられているのは、「曲げる」「与える」「食べる」など。「中動 = 主語がその動作主である過程の内部にいる」として、中動態しかない動詞として挙げられているのは、「生まれる」「死ぬ」「眠る」など。

現在の主な文法体系のように能動態と受動態で対極化し、プラスマイナス、陰陽のように白黒はっきりさせておくと、カテゴライズしやすいし、誰が行為者で、誰の意志が原因で、誰に責任があるのかというのが明確になります。欧米人が好きそう。でも、現実は色々なものが複雑に絡み合って存在しているので、そんなに全て白黒はっきりしていなくて、グレーなものの方が多いですよね。そのグレーなものは能動と受動だけだと説明できない訳です。

本書でもカツアゲを例にとって、脅されてお金を渡しているのは能動か受動かを考えていますが、確かに言われてみたらそうなので面白いです。困っている人に義の心からお金を手渡す行為と、脅されてお金を渡す行為は、行為者の方向からみると両方とも能動で同じなんですね。しかし、ここでスピノザ哲学が中動態によって説明した変状の自閉的・内向的過程が存在すると、能動と受動を行為者の方向ではなく「質」の差として理解することができるようになるそうです。なぜそういう結論に至るかの過程が面白いのですが、ここで説明すると長くなるので実際に本を読んで下さい(笑)。ここでは、能動・受動が行為者の方向ではなく、「質」の差だと理解できるようになるというところだけを取り上げますね。すると、義の心からお金を渡す行為は、その人の本質が原因となって起こっている行為なので限りなく能動に近くなるし、逆に脅されてお金を渡す場合は、その人の本質に従った結果ではないので、義の心からの時に比べて能動的行為とは言い難くなる訳ですね。(第8章 中動態と自由の哲学ースピノザ 参照)

それが理解できると、何の理解が深まるわけ?

中動態、何やら難しいですね。文脈、コンテクストはとても大事なので、上の説明だけ読んでも中動態と、それによる哲学の理解の変化を把握するのは難しいとは思いますが、ここからは実践で起こっていることを説明する上でどのようにこの概念が生きてくるのかをみていきましょう。

私の体へのアプローチ方法は、ブループリント、システム、自然治癒力などと表現される、体に内在している働きに対してアプローチしていきます。すると、その「働き」自体は受ける側の顕在意識で知覚していない時も多いので、受けている人は受動的な感覚は少なく、やり手側としても、そこにすでにある働きが正常に働くようにするということで、あまり「何かをする」という能動的な感じも少ないです。すると、受け手とやり手しかいないのに、自分たち以外の第三の対象に対して働きかけている感じになってきます。また、実際に施術者側の私は「自分が何かをしている」訳ではないので、説明する時に「こういうことが起こっていました」「体がこういう状態でした」と起こった出来事や状態を描写するようになる時があります。このように、その時に起こったプロセスを言葉で表現しようとすると、相手でもない、自分でもない、誰がやっているのかよく分からないし、自分以外の対象物に働きかけているような、何とも怪しい印象になってしまうのです(汗)。しかし、施術者側からすると反応は確実に手の中で起きているし、受ける側も実際に体の変化を感じることができるので、怪しいことなど一つもないのです。それを説明する為の適切な手段がなかっただけなのです。

ここで、中動態は主語がその動作主である過程の内部にある、という状況を表せることがとても大切になってきます。上記の中動態の例にある「生まれる」「眠る」などは、過程として普段意識することはあまりなくても、実際にその過程の中に主語がいますね。自然治癒力や成長・発達を司る「働き」は、受精した時から死ぬまでずっと続いていく過程です。つまり、自分という存在が形成されて人生を生きていく間中ずっと共にあるものなので、常に私たちは中動的にその「働き」と関わり続けている訳ですね。それに対してのアプローチを、施術者→受ける側と行為の方向性だけを表している能動態・受動態だけで説明していては、その間の大切なプロセスを担っている「働き」の概念が欠如してしまうことになります。自分はここにずっと違和感をもっていたんだ!と凄くスッキリしました。

また、能動態が必ずしも行為者の方向性だけを示している訳ではないという理解が深まってくると、ソースポイントである禅問答のような「ただポイントをホールドするだけで、自分は何もしない」という感覚も説明しやすくなります。昔の私は「何もしないと言っていても、ポイントをホールドするという行為を行なっているから能動的、つまり何かをしているではないか」と矛盾しているところに納得できなかったのです。しかし、ポイントをホールドするという行為によって過程が始まるのを促すことができれば、その後は常に意識的に(能動的に)ポイントをホールドしていなくても過程の中にいるだけで良いことが理解しやすくなります。初めはどちらかというと能動的な「質」ではじまり、その後はより受動的な「質」になる訳ですね。しかし、能動的に自分が何かをするのでもなく、受動的に何かをしてもらうのでもなく、ただプロセスがあるだけなんです。中動態の概念が入ってくることで、能動と受動が両端にあるスペクトルの間を行き来できるようになった感じがします!

自由への道筋

この本には、これら以外にも今まで勉強したり考えてきたことと同じような内容が沢山ありました。しかも整合性のとれた論理で説明されている!!と興奮しました。中動態、恐るべし。

第8章の最後に著者は、自由は認識によってもたらされ、物事をありのままに認識することを妨げる自由意志を信仰することこそ、自由になる道をふさいでしまうと言っています。逆に言えば、中動態のもとに動いている事実を認識すれば自由になっていける訳ですね。また、

たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である。

と、本書の一番最後に書かれています。

体と向き合う時も同じです。意志でこうだと決めつけて体に対峙するのではなく、すでに主体の中で起こっている過程を的確に認識し、実際に体で「今」起こっている事をありのままに認識できるようになるか。それが大切なんでしょう!

より自由になる為にセッションをしていると考えながらやるのも悪くないな、と今回改めて思いました。とてもお勧めな一冊です。

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